5b 三国干渉

 

 

このページでは、下関講和条約調印の前から動きが起り、結局日本が合意させられた三国干渉について、確認したいと思います。三国干渉は、列強からの単なる反対意見の表明ではなく、まさしく現実的な日本の軍事的危機でした。そして、三国干渉の根本原因は、日本の清国への領土要求が法外すぎたことにありました。

 

三国干渉の経緯

列強からの講和の強い圧力

1895年2月7日付け『タイムズ』紙が、露英仏三国は中国大陸の寸土も日本の領土とすることを許さない計画だとスクープしたことは、前のページ(「下関講和条約」)で申し上げました。

講和談判が開始されるとともに、干渉が形を取りはじめます。以下は、藤村道生 『日清戦争』 からの要約です。

アメリカから伝えられた、ロシアによる軍事干渉の可能性の情報

1895年3月24日、アメリカ国務長官は駐米日本公使に、駐露アメリカ公使からの報告内容として、ロシアの野心は異常に大、中国北部と満州を占領しようと欲して、日本が同地域を占領し朝鮮を保護国化することに反対、ロシア軍3万が中国北部にありなお増加中、との情報を伝える。伊藤首相が李鴻章遭難のさい休戦を決意したのは、この報告が念頭にあったから。

前ページで確認しました通り、3月24日は、李鴻章との講和談判を開始して早々、李鴻章狙撃事件が起こった日でした。

伊藤首相は、列強からの干渉を懸念して、早期に講和

伊藤首相は、早期講和が得策と考え、4月10日の講和会議に、遼東半島の割譲地域を縮小するなどした譲歩案を提出。談判が決裂すると、陸軍が直隷作戦を開始するが、そのときは列強による干渉が必然的になると判断。12日に到着した西駐露公使の電報は、ロシア陸海軍共同委員会が日本軍の北京侵入阻止の手段を討議し、露仏連合艦隊によって阻止できると結論したことを伝え、伊藤の危惧が杞憂でないことを傍証。
直隷決戦のための増援軍は13日に宇品から旅順に出港。李鴻章が本国に大軍の出征を伝えると、清廷内部の主戦論者も沈黙、総理衙門は日本側の修正提案をほとんど無修正で承諾することを決定。4月17日、日清講和条約に調印。

前ページにも書きましたが、この時代は、日清間の戦争の講和であっても日清二ヵ国間だけでは決定できず、最終結着には列強からの合意が必要な時代でした。ですから、当事者である両国が講和条約に調印すれば干渉を受けない、ということにはなりません。伊藤や陸奥は、そのことを分かっていたはずだと思うのですが。

講和調印前から、ロシアは列強各国に通牒、独仏は干渉に賛成

講和条約調印前の4月8日、ロシア外相のロバノフは各国に通牒し、「日本の旅順口取得は日支両国の親善関係を阻害し、極東平和の絶えざる脅威妨害」となるから中止するよう勧告することを主張。ロシアは、太平洋における不凍港の獲得最優先。独仏二国はロバノフ通牒に賛成、両国は日本の中国分割が惹起するかもしれない大規模な分割競争に対応する準備ができていなかったから。
これにたいし、イギリスにとっては、清国の敗戦の結果、日本はロシアの南下にたいする防壁としての意義を獲得。『タイムズ』紙は、イギリスの利益は何ら脅威されるところはなく、通商条項によってかえって増進されるので、干渉する権利を持たないと結論。イギリス閣議は、ロシアの提議をしりぞけ、連合干渉に不参加を通告。

日本が旅順口の割譲を得るとロシアが干渉する、というのは、もともと予想されていたことであったわけです。ロシアは、他の列強からも、支持を得ようとしました。その中で、イギリスが干渉不参加としたことは、日本には多少有利な展開ではありましたが、イギリスが露独仏三国の干渉を引っ込めさせられるほどの日本への強い支持を表明してくれるか否かは別問題でした。

4月23日 日本外務省への三国の勧告と、三国干渉に合わせたロシア艦隊の示威運動

4月23日、外務省に露独仏公使が訪れ、日本の遼東半島占領は、清国の首都を危うくし、朝鮮国の独立を有名無実とし、極東永久の平和に障害を与えるとの理由をあげて放棄を勧告。
このとき、日本各港在泊のロシア東洋艦隊の各艦は合戦準備に狂奔、神戸と条約批准地の芝罘には軍艦数隻が集合して示威運動。ドイツ皇帝は中国沿岸の艦隊司令官に、ロシア艦隊と連絡を取るよう命令。三国干渉は、背後に兵力を控えた真の干渉だった。

三国干渉は、単なる外交問題ではなく、軍事圧力も伴った干渉であったことが分かります。

5月4日 日本は三国干渉を受け入れ、遼東半島全部の放棄を決定

4月24日早朝の御前会議、
① 断然三国の干渉を拒絶
② 列国会議を招請して列国と共に処理
③ 三国の勧告を聴容して遼東半島を還付
の三策を討議。②を採択。
病床の陸奥外相は、列国会議は新干渉を導くとして、三国に対する譲歩、ただし清国にたいしては一歩も譲らざるべし、の結論に到達。陸奥外相は、なおも英米伊三国の強援を誘引して露独仏三国を牽制しようと図ったが、イギリスも同調せず。5月4日の閣議で、遼東半島全部の放棄を決定。
最終的に日本政府は、3000万両(4500万円)の報償金を代償とする条件で、11月8日清国との間に遼東半島還付条約を締結し、12月27日に引渡しを完了、撤兵した。

結局日本は、三国干渉を受け入れる決断をしました。列強からの干渉は予想されていたことであり、その予想通りに干渉が起こり、抵抗は試みたものの、やはり干渉を受け入れざるを得ない結果に落ち着いた、という経緯であったことが分かります。なぜ、最初から遼東半島を外して講和しなかったのか、そうしていれば、干渉は受けていなかったと思われます。

三国干渉は、まさしく現実的な、日本の軍事的危機

上記の整理からわかることの第一点は、三国干渉は、列強からの単なる反対意見の表明ではなく、まさしく現実的な軍事的危機であったということです。

列強は、当時極東にも艦隊を派遣していたので、その艦隊が日本の直隷作戦を阻止し、あるいは直隷作戦のための派兵で戦力がほとんどなくなった日本の本土を攻撃する、などが実際にありえた、ということが良くわかります。

この時のロシアの極東軍の増強状況については、S. C. M. Paine, "The Sino-Japanese War of 1894-1895" (サラー・ペイン 『日清戦争』)が、次のように書いています。

1894年末以来、ロシア政府は、ウラジオストックに、その極東での海軍力を集中させ、陸軍力の一部も展開させていた。1895年3月には、ロシア海軍はその地中海艦隊を極東に派遣した。4月には、ロシア陸軍は、満州への侵入を準備するため、その陸上戦力を極東ロシアに移動し始めた。〔下関〕条約批准時には、ロシアは太平洋に30隻の軍艦を浮かべていた。

日本軍は、なにしろ全師団が出払っていたのですから、防衛力はほとんど期待できない状況でした。もしも実際に日本の本土に攻撃を仕掛けられていたら、相手方の兵員数はわずかでも、相当の被害を出していたでしょう。危機の現実性があったからこそ、過激な領土拡張論者も黙らざるを得なかった、ということであろうと思います。

 

三国干渉の根本原因は、日本の領土要求が法外すぎたこと

三国干渉は、日本の「国力問題」であったのか?

三国干渉が現実的な軍事的危機であったことだけに注目すれば、三国干渉とは当時の日本の「国力問題」が原因であった、列強に対抗できる軍事力がまだないために三国干渉に従わざるを得なかった、と認識されたのは、理解できないことではありません。

こうした理解からすれば、その事態をカイゼンするため、すなわち「国力」を充実するため、日清戦後の日本が、「臥薪嘗胆」、膨大な予算を軍備拡張に充てることとし、国内世論もそれを支持したのは、必然的でもありました。

しかし、この見方には、そもそも三国干渉を招いた根本原因への追究・反省が欠けているように思われます。

日清戦争以前、清国が列強との3度の戦争で失った領土は、香港+九龍半島だけ

もともと三国干渉を招いた原因が日本の過大な領土要求にあった、日本が清国に突き付けた「遼東半島・台湾・澎湖島」という条件が、当時の歴史的な実績からして、実はあまりにも過大であった、と思われる点について、ここで確認したいと思います。この点は、ほとんどの本に触れられていないため、一般にはあまり認識されていないのではないか、そのため、三国干渉の原因について大多数の日本人は誤解しているのではないか、と思われます。

19世紀になって日清戦争が勃発する以前に、清国が列強と戦わざるを得なかった、アヘン戦争(1839~42年)・アロー戦争(1856~60年)・清仏戦争(1884~85年)の3つの戦争について、どういう結果であったかは、このウェブ・サイトの「第1章 帝国主義の時代」の項の中ですでに確認して来ました。(「1 帝国主義の時代 - 1b アヘン戦争とアロー戦争」および「同 1c 仏のベトナム植民地化」のページを参照ください)

アヘン戦争でイギリスは、広東省から江蘇省・浙江省にかけて、清国の10ヵ所以上の町や島などを占領しましたが、領土割譲させたのは香港島だけでした。アロー戦争で、イギリス・フランス連合軍は、広東や舟山島のみならず、天津から北京郊外に至る一帯まで占領しましたが、領土割譲させたのは香港島対岸の九龍半島南部だけでした。清仏戦争では、清国はベトナムに対する宗主権は喪失させられましたが、中国領の割譲はありませんでした。

すなわち、1839年から85年までの50年近くの間の列強との3度の戦争では、清国は北京郊外まで攻め込まれたこともあったのに、失った領土は、実は、香港島と九龍半島南部だけ、という実績であったのです。

これについてはすでに、当時のイギリスの戦争の仕方の特徴として、下記の3点が挙げられる、と申し上げました。
① 戦争目的は、イギリスの貿易上の利益で一貫
② 戦争は、あくまで外交交渉の圧力とするための手段
③ 領土要求も、イギリスの貿易上の利益という目的に適合する範囲で、必要最小限

また関連して、当時の清国は戦争を仕掛ける相手であっても、機能している政府があり、植民地化を図る対象とは思われていなかったと思われる、ということも申上げました。

とにかく、いままで清国は、その本土から遠隔で満州族や漢族が住んでいない、アムール川以北などはともかくも、本土といえる土地では、香港島と九龍半島南部しか領土をとられていなかったのです。

講和談判前の日本国内の「欲望の増長」

上述の清国の領土割譲の実績には全く関知せずに、日本国内の「欲望」は、講和談判前に著しく増長していたようです。どれだけ増長していたかについて、藤村道生の前掲書が紹介しています。一部を抜粋して引用しますと、

『時事新報』
「とりあえず盛京、吉林、黒竜江の三省を略し…我が版図に帰せしむべし」(8月21日)
「金州、大連湾を日本領北支那の香港となす」(12月31日)
威海衛、山東省、台湾の領有を主張したうえ、「償金は何十億にても苦しからず」(3月12日)
大隈重信 『改進党党報』
盛京省と直隷省を占領し、第二軍が山東省と江蘇省を占領したうえ、さらに第三軍を編成して台湾と揚子江流域を領有せよと主張(10月、第七議会直後)
休戦承諾は北京占領を条件とするべき、欧州強国の干渉による講和は絶対に拒否(12月の臨時党大会)
樺山軍令部長 「敵地領有に関する意見」
「償金のほか、金州半島、山東半島、澎湖島、台湾、舟山列島の一部を領有」(1月)

『時事新報』 の言う東三省(満州)を全部取れ、とか、大隈の河北(直隷)・江蘇まで取れとかいう意見は、日清戦争の実際の戦線の範囲よりもはるかに広大です。日清戦争の戦線範囲ですら、日本の全師団の出征が必要だったのですから、そんな広い戦線まで派兵し兵站を成立させ戦って勝てるほどの軍事力を、当時の日本は持っていませんでした。その意味で、これらは威勢はきわめて良いものの、実際には全く非現実的で無責任な空論・暴論でした。

福沢諭吉自身が執筆していなかったとは言っても、福沢の影響力の範囲内であったはずの 『時事新報』 や、民党とは言え、外務大臣までやって外交が分かっていなかったはずがない大隈重信までが、清国と列強との間の今までの実績を無視して、とんでもない空論・暴論を主張して、世論を煽っていた、と言わざるを得ないように思います。

大隈も福沢も、外交上で列強から支持を得ることの重要性を十分に分かっていたはずと思います。対清要求で欧州強国からの干渉拒否、などということがそもそも現実的に出来るのか、知らなかったはずがありません。

ところが、彼らの大衆受け狙いの主張の影響力によって、日本政府も領土割譲要求を拡大せざるを得なくなり、その結果は三国干渉を招いたわけです。そういう観点からすれば、彼らの主張は、威勢のよい外見とは正反対で、本質的には国益に反した主張であった、と言えるように思います。

日本が要求した遼東半島の面積は、香港島+九龍半島の20倍以上

講和談判で、日本は、遼東半島・台湾・澎湖島の割譲を要求し、このうち遼東半島だけが三国干渉にあいました。では、遼東半島については、どれだけの部分の割譲を要求したのでしょうか。

これについては、藤村道生 『日清戦争』 が、日本の割譲要求範囲がどのように変化したのかの地図を載せていますので、それを引用させていただいて、確認したいと思います。

遼東半島割譲要求案の変化図

詳細は藤村著書で直接ご確認いただきたいと思いますが、この地図からは、

● 最終的に講和条約で合意され、三国干渉の結果返還されることになったのは、営口-海城-鳳凰城を結ぶラインから南方の、非常に広い面積であった
● しかし、講和談判で当初4月1日に提出された原案は、田庄台・牛荘・鞍山など、遼河平原での日本の占領地域のみならず、遼陽、さらには奉天のすぐ南まで達する、さらに広大な地域であった

ということがわかります。

ついでに申しあげますと、香港+九龍半島の面積は、新九龍を含めても約1100平方キロです。遼東半島で、この香港+九龍半島とほぼ同じ面積の土地、といいますと、金州以北を含まぬ大連+旅順口(約1060平方キロ)であり、日本が得ようとした遼東半島(2万平方キロ以上)のごく一部の面積に過ぎません。なお、台湾は約3万6千平方キロと、さらに広大な面積でした。

清国が欧州列強との3度の戦争で失った合計面積と比べ、日本がいかに広大な面積の領土割譲を要求したか、ご理解いただけると思います。

文明を忘れて、300年前の豊臣秀吉の昔に戻った日本

日本は、基本的には、占領したところはほとんど全部よこせ、占領していないところも少しよこせ、という要求を行った、と言えます。4月1日の時点で、日本は、澎湖島は占領していました。台湾にはまだ全く手を触れていなかったのに要求に加えました。遼東半島方面では、遼陽以北はまだ占領していませんが、それも要求に加えました。逆に、占領していたのに割譲要求に加えなかったのは、威海衛だけでした。

アヘン戦争・アロー戦争で占領地のごく一部しか要求しなかったイギリスの実績とは大違いの、法外な要求でした。占領したところは全部自分のもの、という発想は、日本の戦国時代の発想だったように思います。日清戦争では、開戦以来ここまで、文明国であることを証明する戦争を進めてきた日本が、講和での領土要求に関してだけは、文明国を目指してきたことを忘れ、急に300年前の豊臣秀吉の時代の発想に舞い戻ってしまった、という印象を受けます。

まずは、戦争状態といえども、常に貿易での利益拡大が目的であることを明確に認識し、軍事行動は外交交渉の手段と考えるイギリスと、朝鮮からの清国の影響排除という宣戦の詔勅で宣言した戦争目的が達成されても戦争を止めず、以後は目的が不明確になってしまった日本との差があるように思います。

また、日本の軍人の中には、特に山県有朋以下の第一軍に、「占領せる地を棄てて退却するは敵の志気を増長せしむるの不利」(大本営の発言)と固く信じている人たちがおり、その考え方が講和の条件にも現れて、占領地のほとんど全域を割譲せよと要求してしまったのかもしれません。兵站が困難なら退却するのは、秀吉の時代でも当然の行動であり、合理性については戦国時代よりも劣っていた、と言わざるを得ないようにも思います。

三国干渉により遼東還付を決めた際、それを国民に知らせる前に、政府はまず山県有朋を旅順に派遣し出征軍人を慰撫した(藤村道生 『日清戦争』)ということも、背景としての軍の意思が強力であったことを示しているように思われます。

 

日本の「自国独善主義」要求が三国干渉を招いた

領土大拡張論は、国内的には威勢が良くて通りがよいのですが、19世紀後半の世界の常識を知らない、16世紀末の秀吉の朝鮮侵攻的発想のままの主張でした。三国干渉を招いた理由は、それが素朴な「自国独善主義」で、国際的な影響を全く考えていなかったところにありました。

三国干渉の中心となったロシアについては、根本に、満州への進出と不凍港の獲得というロシア自身の戦略がありました。フランス・ドイツについては、日本の取り分が過大すぎただけでなく、この講和条件では清国の領土分割競争が開始されてしまうことを強く懸念した点がありました。

また三国干渉の背景には、清国李鴻章による外交もありました。李鴻章は「講和交渉が行われているさなかに、その経過を列国に通報して、その干渉を働きかけていた。そして干渉があるとの情報をドイツから暗号電報で入手したうえで、下関条約に調印した。… ロシアを引き込んだのはほかならぬ李鴻章なのである」(岡本隆司 『李鴻章-東アジアの近代』)。

日本が行った要求が国際的にはどういう影響を持つのかを十分に考えずに、自国独善主義で要求を突っ張った日本と、影響に懸念を持った列強と、そうした懸念を利用して味方にしようとした清国。その三者のなかでは、日本の外交が、発想においてもっとも遅れていたように思われます。

遼東半島要求は列強の干渉を招くと、日本国内でも指摘されていた

遼東半島割譲まで要求すれば列強の干渉を招く、とは、講和談判時に、清国に講和条件をしたタイミングに先立って、日本国内の新聞紙上にも指摘されていたことのようです。以下は、大谷正 『日清戦争』 からの要約です。

3月23日『日本』の記事

各新聞紙上には以前から列強の干渉に関する記事が掲載されていた。たとえば伊藤内閣に批判的であった対外硬派の代表的新聞 『日本』 は、パリ滞在中の池辺三山が「鉄崑崙」のペンネームで送ってくる「巴里通信」を連載していたが、すでに2月の通信(3月23日掲載)では日本の遼東半島領有を英仏が認めないとの観測が明記されていた。

三国干渉後は、伊藤内閣の外交交渉への批判

このような記事を前提に、同紙は三宅雪嶺(5月15・27日)と陸羯南(5月27日)を掲載、国際情勢を読み違って遼東半島割譲を求めた伊藤内閣の外交政策の誤りと責任問題を厳しく追及した。

民間が手に入れた情報でも、干渉の危険が指摘されたぐらいですから、政府の外交当局がそれを知らなかったはずがありません。それにもかかわらず行われた伊藤首相と陸奥外相の判断は、明らかに誤っていました。実際に干渉が起こった結果として生じた日本の国益阻害には、この二人に重大な責任があったと言わざるを得ないように思います。

また、上記より、日本国内での伊藤内閣批判には、三国干渉を受けて遼東半島が取れなかったことへの批判と、遼東半島割譲を求めて三国干渉を受けることになってしまったことへの批判という、全く異なる2つの批判があったことが分かります。

 

三国干渉後の日本へのマイナス影響

三国干渉の影響 ① - 朝鮮への影響力の喪失

講和談判で法外な領土の割譲を要求し、三国干渉が生じて、日本が遼東半島を還付せざるを得なくなった、という事態の結果は、何が起こったのでしょうか。

短期的にみての最大の悪影響は、日清戦争開戦の本来の目的であった朝鮮で発生しました。日清戦争は、もともと清国勢力を朝鮮から駆逐するために行われました。言い換えれば、朝鮮を明確に日本の影響下に置くことが目的であったわけです。

日清戦争の期間中は、日本の目的は果たせていました。朝鮮の国王と政府は、日本が清国より段違いに強い状況を見て、日本が推進する朝鮮の内政改革に従うようになりました。しかし、三国干渉という事態を見て、朝鮮側はロシアの方が日本より強力であると理解し、ロシアに支援を求めるようになり、日本が推進しようとした内政改革が進まなくなります。

すなわち日本は、戦勝によって、朝鮮を日本の影響下に置くという日清戦争開戦の本来の目的をいったんは達成しながら、三国干渉を受けた結果、そのせっかくの成果を喪失することになってしまったのです。この点は、次の「6 朝鮮改革と挫折」のところで、詳しく確認していきたいと思います。

三国干渉の影響 ② - 列強の中国侵略の激化

清国全権である李鴻章は、講和談判中の4月5日に、長文の覚書を伊藤全権に送ります。その内容は、「清国領土の割譲は清国民の対日復讐心をたかめ、将来の日清協力を困難にするが、日清両国の紛争は、東アジアにたいする列強の侵略を誘起するのみである。日本の国計と民生は、日清両国の親睦に依存するところ大であるから、日本は講和条件を緩和すべきであると切言した」ものでした。(藤村道生 『日清戦争』)

日本が広大な領土の割譲を得れば、目先は大きな利得と思うかもしれないが、清国内の反発は強力となって、それが中長期的に日本に跳ね返ってくるし、さらには列強の東アジアへの侵略も促進してしまうであろう、むしろ講和条件を緩和する方が、日本が得をするやりかたである、という、この李鴻章の主張は、中長期的観点に立つとき、まことに至言であったと思われます。日清講和をきっかけに、列強の中国分割が大加速をした、ということも李鴻章の予言通りとなりました。

もしも過大な領土要求をせず、三国干渉が起っていなかったら

ここまで見てきました通り、三国干渉を招いた根本的な原因は、日本自身の戦国時代的な法外な領土要求にあり、またその要求が「自国独善主義」によるもので、国際的な常識や影響を全く考慮していなかった点にありました。その結果は、日本自身に対し、短期的にも中期的にも長期的にも、大きな不利益をもたらしました。

日本が、平壌の戦いと黄海海戦で戦争目的を達成した時に戦争を止めていれば、あるいは、領土割譲要求を台湾と澎湖島にとどめ遼東半島を外していれば、三国干渉は起こっていなかったでしょう。

そうなれば、日本はまずは朝鮮への影響力を確保し続けられたはずです。また列強の中国分割競争がここまで短期間に活発化することはなかったろう、と思われます。すると、ロシアが旅順・大連湾を租借する事態も、日露の利害対立が顕在化する事態も、戦後の早期には起こっていなかったでしょう。日本とロシアとの対立は、最終的には日露戦争に発展していたかもしれませんが、開戦時期はずっと遅くなっていたでしょう。

日本自身にとっては、三国干渉が生じていなければ、臥薪嘗胆と称して軍備費に大金を注ぎ込む必要性が小さくなっていたでしょう。そうなっていれば、民生経済の発展にもっと資金を回すことができました。その結果、日本の資本主義は、より健全で迅速な発展が図れていた可能性が高かったように思いますが、いかがでしょうか。

三国干渉の原因への反省・カイゼンがなかった

「国益」ということになると、日本の利益を全く妥協せずに主張して、少しも退かないことが正しい、と信じている人たちが、現代の日本にもいるようですが、当時の日本にはさらに沢山いたようです。ナショナリズムは過剰・過激になればなるほど、国内でのウケは良くなり、国論がそれに引っ張られていってしまいます。すると、政府も引っ込みがつかなくなり、国際的な落とし所を越えた主張をせざるを得なくなります。

そうなると、列強、あるいは国際世論は日本の主張を支持できなくなって、日本の主張が通らなくなります。現実には、自国の国益だけを一方的に主張して妥協しない自国独善主義は、国際的な支持を得られず、実現に失敗して、結果的には国益を害する可能性がきわめて高いのです。

つまり、「ナショナリズムの過剰は、自国独善主義につながり、かえって国益を害する結果をもたらす」、というのが経験則である、と言えるように思います。さらにもっと過剰化・過激化した実例が、昭和前期の日本です。この経験からは、「著しく過激化したナショナリズムは、国を滅ぼす」、と言えるように思います。

日清講和での三国干渉も、原因は上に確認しました通り、過剰な国益主張・過激なナショナリズムにあり、現に失敗が起ってしまいました。しかし、実は日本自身の行動が原因であったと、適切に反省されたようには思われません。

三国干渉では、「臥薪嘗胆」といういわば対症療法が合意されただけで、三国干渉が発生した根本原因までさかのぼって究明せず、失敗から学ばずに終わってしまったのではないでしょうか。三国干渉の原因を反省・カイゼンし、「国際協調の限度を越えて過剰化したナショナリズムは、国益を害する」という教訓を、以後の日本の軍事・外交に徹底できていたなら、昭和前期の大失策は、起こっていなかったように思うのですが。

 

 

次は、日清戦争の本来の目的であった朝鮮について、戦中から戦後にかけて状況はどのように変化したのか、日本はその戦争目的をどこまで達成できたのか、などを確認したいと思います。